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真に卑しく犯罪的な新聞こそが、忌まわしいウィルスを社会にくまなく広げ、病的好奇心をそそる。そうした新聞はまさに腐敗を増長させるウジ虫に等しい
ロンブローゾ (Cesare
Lombroso:1836-1909)
「少年の間で薬物の濫用が蔓延している」と聞いたとき、「その通り」と思った人は、ロンブローゾが「ウジ虫」と呼んだ「マスコミ」というウィルスに感染している。
右のグラフの通り、少年の間での薬物使用は減少している。メディアが「女子高生、麻薬欲しさに援助交際」といった見出しを好むのは、薬物犯罪が減っているという事実を伝えても、売り上げが伸びないからだ。少年による殺人・強盗などの凶悪犯罪も実は増えてはいない。(少年犯罪特集)。
同様に少年審判(成人の裁判に当たる)の数も減少しており、銃刀法の逮捕者も校内暴力事件も増えているとはいえない。
少年犯罪を全体で観察し、二次曲線を引いてみれば、確かに増加傾向にあることは事実だが、昭和55年から平成7年にかけて15年にわたって少年犯罪が急激に減っていたことはマスコミは決して報道しない。
私がこうした事実を指摘しているのは、「悪いニュース」のみに目を向けるというその精神構造が、多かれ少なかれ「終末論」の一形態として見ることができるだからだ。終末論は、ウガンダの集団自殺やカルト宗教を増長させている本質的原因であり、それとともに社会に極端な悲観主義をもたらす。
15世紀フランスの男爵でジャンヌ・ダルクの部下だったジル・ド・レー(Gilles
de Rais)は、数百人の農奴の子供をただの娯楽のために殺した(確認されているだけで150人、多ければ800人)
6世紀ドイツのPeter
Stubbeは子供を襲い、切り裂いて食べた。恐るべきことにStubbeは自分の子供の体を切断し脳を生で食らった。(The
A-Z Encyclopedia of Serial Killers:Harold
Schechter)
こうした異常な殺人者は古今東西、常に一定の割合で出現し、防止は不可能だ。そのことを知っておいてから殺人者の処遇について考えるべきで、いかように社会のシステムを変革しても殺人はなくなることはなかった。殺人はこれからもなくなることは永久にあり得ない。
私がこうした「方法的悲観論」を強調するのは、終末論のような詐欺的言説に毒されている意見から離れ、自らの問題意識を安易に一般化することを避けるべきだと思うからだ。
つまり、「偏差値教育」を問題だと考えている人は、酒鬼薔薇事件を見て知識偏重の偏差値教育が問題ありとしてその改革を訴える。ただ、偏差値教育のない一部西欧諸国で殺人の発生率は日本の約3-6倍程度(アメリカは約8.7倍、中東諸国は統計すら発表していない)であることをどう説明するのか? また、16世紀ドイツには偏差値教育はなかったが猟奇的殺人や魔女狩りは跋扈していた。
「現代人は欲望を抑えることを忘れたため犯罪が増えている」、「父権が喪失した」、「物質的豊さの中で精神の成長を忘れた」「母親の過保護」等、批判するのすら意味がない意見がある。
こうした意見が完全に間違っているのも、自己抑制や家族倫理を初等教育段階で徹底的に教えている国々、たとえばドイツや中東の諸国で犯罪率が日本よりはるかに高いことを説明できないからだ。また、教会の定めた厳格な律法にがんじがらめになっていた中世に魔女狩りが跋扈していたことも説明のしようがない。倫理がしっかりしていることと犯罪の発生は全く関係がないと私は考えている。
もし、ある人間が「世の中はくだらない」という終末論的意見を持っていたとしよう。その場合、「認識が対象を決定する」という言葉どおり、世の中に起こっている無限な事件の中から、自分の見解に合致する現象を選択して自分の終末論を形成・補強していく。
また、「精神の荒廃は戦前のような倫理観・愛国心を教えなくなったからだ」と意見を持っていれば、それにあった事実を持ってきて意見を展開することになる。かつてイギリスの歴史家E.H.カーは「(真実は一つだが、解釈について)事実は勝手である」と述べた。事実と真実は全く違うということを、忘れてはならない。
オウムや人民寺院のように終末論や、「世紀末」という言葉を信じるのは勝手なのかもしれないが、それに基づいて実際に行動することには大いに問題がある。こうした意見が間違っているのは、それを主張する人々が社会に対する己の不満を主張するための論拠として、社会問題や猟奇殺人、少年犯罪を手前勝手に使っていることだ。偏差値教育をなくせば犯罪はなくなるのか?学校で倫理観を教えれば何かが解決するのか?
私にはどうしてもなくなるとは思えない。そうした犯罪はどんな状況下にあっても、古今東西必ず発生してきたものだからだ。残虐な犯罪は絶対に防ぐことはできない。それはある一定の確率でどんな場所にもどんな時代にも必ず出現してきた。
残虐な殺人が、仮に一定の割合であらゆる場所に必ず出現するという命題が正しいと考えてみてほしい。酒鬼薔薇事件や先日のバスジャック事件に際してマスコミや知識人が言っていることが、如何に偽善的で的を外れているかが分かるだろう。少年法の改正に私は賛成だが、罰を重くしたとしても犯罪は絶対に減らない。
ロシアのエカチェリーナ2世は死刑を廃止したが、その後暴力犯罪は減少した。また、死刑を廃止した西欧諸国でも死刑の廃止と犯罪の増加に有意な相関関係は証明されていない。(死刑には賛成だが)
問題なのはテレビ・新聞・知識人が自分の売り上げを伸ばすために、終末論的な危機感を煽り、自分が実現したいと思う価値観と現実が違っていることに苛立って本来因果関係がないことを勝手に結びつけていることだ。猟奇的殺人はこれからも起きる。ただ、それは教育や社会のシステムを変えることで防止することはできない。それは過去の歴史や他国の事例を冷静に観察すればすぐに分かるはずだ。酒鬼薔薇は、「義務教育が悪いと書いた方がマスコミ受けする」と供述で述べている。
フランスの数学者ラプラスは、全ての現象には因果関係があると考えた。そうした思考過程は、中世的な迷妄を啓蒙するには役立った。しかし、人間の行動を分析する際には、全ての現象に原因と結果があるとする因果論は否定すべき場合がある。人間が時として論理を越えた行動をとるのは誰しも肯定することだろう。我々が空を眺めること、目的地に遠回りすること、猫の頭をなでること、そういった日常の行動に、確固とした原因と結果の関係があるとする事には明らかな無理がある。
おぞましい犯罪が予防できないとすれば、最終的に問題となるのは「危機管理」だろう。つまり、それが起きたときにどう対処するのか、という方法論の問題なのだ。犯行が連続していないうちに犯人を捕らえ、その異常性を見抜き社会から徹底的に隔離すること以外に我々にできることなどないのだ。ただ、以下の指摘がある。
精神分裂病が異常な猟奇殺人の原因となることは多いが、精神分裂病患者が犯罪を犯す確率は一般人のそれより遙かに低い。ただ、最高水準の精神医学でも患者の言うことを原則として全て事実としている点で、患者の危険度を測る客観的な尺度が現実には存在しない
(Ressler,
Burgess, and Douglas in Sexual Homicide: Patterns and Motives)
つまり、他人の頭の中はたとえ親・恋人でも窺い知ることは絶対に不可能なのだ。精神医学が信用できないなら、犯行が連続する前に逮捕する事、もしくは安易な仮釈放を認めない事、の2点しかできる事はないことになる。
クリス・カーターの「ミレニアム」は、"その時は近い(the
time is near)"と訴え、色濃く終末思想を背景にしている。中身の無さでアメリカ映画史上に不朽の名を残している「氷の微笑」のような、全体の展開に全く意味のない暴力・セックス描写を避けて、人間の精神世界の暗闇を描くのは良い視点だが、それを悪趣味なオカルトに結びつけてしまったことが、「ミレニアム」をカーター最大の失敗作にした原因だろう。X-FILEは"コメディ"としては名作であり、金を払ってでも見る価値がある。モンティパイソンを遥かに凌駕するあのユーモアのセンスは世界映画史上でも異彩を放っている。あれほど笑える作品は近年珍しい。
「羊達の沈黙」が、ジョディ・フォスターの稚拙な演技と訓練生という設定の不自然さを我慢しなければならないとしても、名作として評価できるのは、精神科医レクターの狂気と異常さを、暴力・セックス・オカルト・終末論という卑怯で扇情的な方法を使わず、見事に描ききったというところにある。
マスコミの無責任な社会批判や目を曇らせる言説を冷静に受け止めなければならない。2000/01/01には結局何も起こらなかったし、2000/12/31日までにも何も起こらないだろう。そのためだろうか、20th
Century Foxの「ミレニアム」公式サイトは消滅している。
本稿の続編:少年犯罪特集
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