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エリザベート・バートリー伯爵夫人

(英語:エリザベス・バソリー)1560年生

本人の日記の記述によれば、被害者は若い女性ばかり612人とされる

ポーランド国王の従兄弟。オーストリア・ハプスブルク家と関係の深い名家の娘。ハンガリーの貴族

美貌が衰えるのを恐れ処女から血を絞り、血液風呂に入った

姑との確執、夫との不仲、遺伝的障害などが原因

有罪確定後、自らの居城であるチェイテ城に幽閉。窓は全て塞がれた。その3年半後、54歳で死去(1614年夏)

Erzsébet Báthory

 Dennis Bathory-Kitsz


チェイテ城跡

エリザベート・バートリーは1560年ハンガリー・トランシルバニア地方の名家バートリー家に生まれた。バートリー家は名門ハプスブルク家ともつながりのある古い貴族の家柄で、エリザベート本人もポーランド国王の従兄弟にあたる。

近親婚が繰り返されたため、遺伝的な異常者が多かったと見られ、叔父のステファン(Stephen Bathoryポーランド国王)が癲癇のため死亡しているのをはじめ、家系には自殺者・精神障害者が複数確認されている。一方、トランシルバニア行政長官、枢機卿、大臣も複数輩出している(当時の貴族は能力がなくても高い地位に就けた)。


11才の時から婚約者フィレンツ・ナダスディ伯爵(Ferencz Nadasdy)の家に委ねられた。この婚約者の母ウルスラ・ナダスディは口やかましい養母で、この大嫌いな養母の元で彼女は花嫁修業をさせられることになった。一説にこの婚約期間中に子供を出産し養子に出したという話がある(4年も婚約していれば妊娠するのが当然ともいえるので書くことにする)


夫フィレンツ・ナダスディはかなり加虐的性格だったようで、メイドが怠惰であるとして男性の前で裸にした上、体に蜜を塗って木に縛り付け、全身に虫・蜂がたかるのを見て喜んだという話がある。ただ、16世紀の貴族や領主は召使や農奴を人間として扱わないことがむしろ当たり前だった点で、特に異常だったとも言えない(ページの下のほうに解説した。当時の魔女狩りについてはここを参照)。

フィレンツ・ナダスディ伯爵26才、エリザベート15才で二人は結婚、チェコスロバキアとの国境に近いチェイテ城に移り住んだが、家同士の政略結婚に過ぎず当初からエリザベートは身心共に苦痛を感じていた。エリザベートが結婚後もバートリー姓を名乗っていたのは夫の家よりバートリー家の格が上だったためだ。

夫はハンガリーの国民的英雄で、戦いに出陣することが多かった。エリザベートは不在がちな夫と陰湿な姑に鬱積した不満を持つ中で、魔術を学び不貞を働くようになった。不貞騒ぎを夫は許したが、姑はエリザベートを厳しい監視下においた。



チェイテ城のあるニートテ地方は田舎で、夫とともに訪れたウイーンの宮廷の華やかさにとは別世界だった。不幸で退屈な毎日は精神をむしばみ、日常は宝石収集や肌の手入れくらいしかすることがなくなった。自分の美しさを磨く事だけが興味の対象となった。魔術・呪術への傾倒はこの頃から常軌を逸したものになっていった。下男からシャーマンの秘法を学んだり魔術師を城に招いたりし、動物の死体を悪魔に捧げる儀式に執着するようになる。

エリザベートが20代だったこの頃の話では、女中が服の着せ方を間違えたために顔に加熱した鉄棒を押し付けたり、体の上に紙を置き火をつけるなどの行為があったとされる。また、10代の少女を男性達の前で裸にして踊らせたこともあるが、こうした行為も当時の慣習・世情を考えると必ずしも異常ではない。

夫フィレンツ・ナダスディは、オスマン=トルコ軍と戦って55歳で戦死(1604年)。当時エリザベートは44歳だった。このあたりを境にオカルト趣味は現実のものとなっていく。

ある日、女中の少女がエリザベートの髪をすいていた時、櫛に絡まった毛を強く引っぱられた。激怒したエリザベートは女中の顔を返り血を浴びるまで殴り続けたが、血のかかった肌が若返ったかのごとく見えたため、その女中を殺害し血液を全身に浴びた。4人の子供を産み女の盛りを過ぎていた彼女は「老い」を最も恐れていた。

エリザベートは部下や執事に命じて次々と女中達を殺し、娘が足りなくなれば近隣の農村からかき集めた。「優雅な生活が出来る」と騙されて城の中に消えていった娘達は二度と戻ることはなかった。やがて城の周りから若い娘達の姿が消えていった。

エリザベートの嗜虐心、美と若さの象徴としての処女への憎悪、迷信が結合した結果として凄惨な残虐行為はおきた。髪のセットの仕方が悪ければ、目に釘を刺し爪の間に針を刺す。靴の履かせ方が悪ければ灼熱の鉄棒で足の裏を焼き、立派な赤い靴を履いていると哄笑した。

お喋りが気に触れば口をナイフで左右に切り裂き、あるいは糸で縫った。裸にして木に吊るして蜜を塗り、ハチやアリに群がらせて発狂死させる、などの虐待が伝わっているが、後世の作り話と見られる話も多いため、実際どうだったかは定かではない。ただ、発見された遺体や物証からみて血液の風呂に入っていた事や、殺害自体を娯楽にしていた事はほぼ間違いない。


拷問の方法としていくつかの話が伝わっている。
犠牲者達は城中の一室で裸にされた上で、木製の拷問台に縛り付けられたり天井から吊り下げられ、針や刃物で体に穴をあけられて血を抜かれた。

高名な時計技師クロック・スミスというドイツ人に「鉄の処女」と呼ばれる死刑具を作らせ血液を搾り取った。これは鉄製の人形で、内部に太い針が仕込んであり、抱きしめるような形で人間を串刺しにするというものだ(この拷問具については、映画「スリーピーホロー」の中で、主人公の母親が殺害されるシーンにおいて詳細に再現されている)。また、「鳥籠」も内側に針のついた檻で、中に入れて揺することで血液をバスタブに溜めたといわれる。


1610/12/30日、犠牲者の一人である下級貴族の少女が城から脱走。エリザベートの従兄ジョージ・ツルゾ伯爵がMathias国王の命を受け、チェイテ城内を捜索したところ、血を搾り取られた娘の死体が山積みとなっており、全身穴だらけで瀕死となった少女達のうめき声が響いていた。

エリザベート本人の日記によれば犠牲者は612人。

罪を犯して収監された者に借金を払わなくて良いという法律があったため、国王が逮捕の命令を出したのはエリザベートが国王に多額の債権を持っていたからいう可能性もある。

共犯の執事・乳母イロナ(子供の乳母)、執事ヨハネウス・ウィーバヴァーリー、下女ドルコ、女魔術師ドロテア・ツェンテスなどは裁判で斬首または火刑になった。しかし、王族の血縁関係(ポーランド国王の従兄弟)にあったエリザベートは死刑を免れた。

しかし、一族によってチェイテ城に幽閉され、3年半後の1614年54才で死亡。死んだ時かつての美貌は見る影もなかった。



Mathias国王が行った裁判は今日の常識とはかけ離れたものだった。エリザベートは無罪を主張したが、裁判への出廷は許されず、エリザベートの有罪を証言した関係者は全て拷問されていた。

ただ、エリザベートの城から600以上の女性の死体が発見されたこと自体は事実で、400-500の証人がいたことからしても全てが捏造とは言えない。なお、裁判の記録には、血液への入浴や飲血の事実は書かれていない(もちろんこの記録が真正とは限らない)。 

エリザベート・バートリーの話は、国王が名前を口にすることすら禁じたことで長らく封印された。しかし口づてに"悪魔の花嫁"として伝説化し誇張され、その一部が事実として認められたのはチェイテ城が発見された1962年のことだった。

 

 

幽閉された塔

 

 

 

Dennis Bathory-Kitsz


-----時代や背景の解説-----

当時欧州全土に広がっていた魔女狩りの残虐さを見れば、バートリー夫人の行為は「時代の産物」として理解できるかもしれない。集団虐殺を行い残虐さで有名な女性としては、カクテルの名前にもなっているブラッディ・マリー(イギリスのメアリ1世)やカトリーヌ・ド・メディシスなどがあげられるが、バートリー夫人との相違点は、残虐行為の理由が宗教的・政治的なものだった点だ。少なくとも自分の容貌や娯楽のために血液を抜いてはいない。

ハンガリーでは1524年に農奴の反乱が起きたが失敗、指導者達が全員死刑になった事件があるが、彼らは仲間の肉を生で食べさせられた上、生きたまま鉄板の上で焼かれた。

また、有名な話では貴族・領主には「初夜権」があり、結婚する妻は初夜を夫の領主と過ごさなければならなかった(この慣習は欧州全土で行われており廃止されるのは17-18世紀に入ってから)。

なかば独立国といえる領地内では「司法権と警察権」を領主が持っており、領主は農奴・召使に対して何をしても罰せられない仕組みになっていた。領主が農奴の娘を強姦したり、愛人にするのは当時としては当然の慣習で、働きが悪いという理由で、下男に集団レイプさせたり、車裂きや火あぶりにすることも珍しくはなかった。「三権分立」というモンテスキューの発明がいかに世界史的な偉業であるかは、この点から明らかだろう。

東欧は、西欧と違って市民革命を経ないまま社会主義圏に統合されたため、真の意味で民主化が進行したのは1990年代に入ってからだ。つまり、一般市民の人権が守られる方が異常という状態がつい最近まで延々と続いてきたことになる。

自分の私有地を守る事しか頭にない「領主」という人種は、ヨーロッパのみに限らず世界中に散見され、数々の残虐行為を犯している。なお、西欧列強がアフリカ・中東・アジア・南米を植民地化する際に取った手法は、領主・地主を優遇しながら相互に敵対させるという方法だった。ただ、西欧列強が取った植民地政策もまた領主達に劣らぬ残虐なものだった。インド人将校の武装蜂起である「セポイの乱(1857-59)」では、捕らえた捕虜をイギリス軍は大砲の砲身に詰めて吹き飛ばした。

すべての人間の命は重いという認識が生まれたのは、20世紀後半を過ぎてからだという事実を直視しないと、過去の事件はうまく評価できない。一人の人間が殺された時、犯人が誰であろうと公正に裁かれるという制度は今日では常識だが、無念のうちに死んでいった無数の人々にとっては永遠の夢であり悲願だっただろう。

Dennis Bathory-Kitsz

Bunson, Mathew, The Vampire Encyclopedia, Crown Trade Paperbacks, New York, NY, 1993.

Codrescu, Andrei, Blood Countess, Simon & Schuster, 1995.

Haworth-Maden, Clare, The Essential Dracula, Crescent Books, New York, NY 1992.

http://movie.reel.com/moviepage/2946.html.

McNally, Raymond T., Dracula was a Woman, McGraw-Hill Book Company, 1983.

Opie, Iona and Peter, The Classic Fairy Tales, Oxford University Press, London, Great Britain, 1974.

Penrose, Valentine, The Bloody Countess, Calder & Boyars, London,  1970.

Stoker, Bram, Dracula, Penguin Books, New York, NY, 1979.

 

 

 

 

 

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